というわけで、八月十三日である。
残暑のクソ厳しいその日。俺たちは、長門のマンション前に集合していた。
長門、朝比奈さん、古泉、ハルヒ。そして、阿万音鈴羽の五人が、俺の目の前に鎮座している。
「遅刻。罰金っ!!」
と宣言したのは、朝から元気な団長様だ。
予定の集合時間には、まだ五分ほどあるはずだが?
「一番最後に来たは罰金よ。そう決めたでしょ?」
そう言えば、そんなルールもあったような気がする。
クソ長い夏休みの彼方に、そんなローカルルール忘れ去ってくれりゃ良かったのに。
「せっかく秋葉原に行くんだから、メイド喫茶がいいわ。みくるちゃんもそう思うでしょ? メイドの何たるかを、本職のメイドさんに教授してもらうといいわ」
と、相変わらず姦しい。こいつと会うのは合宿以来だが、鬱陶しいのは相変わらずだ。むしろ、夏休み熱に感染してパワーアップしているかもしれない。
「え? ふぇええ?」
急に話をふられて困惑する朝比奈さんに、俺は視線でメッセージを送る。ハルヒの話を本気にするのはやめたほうがいいですよ〜。
「秋葉原は詳しいんでしょ、阿万音さん? どこか良いメイド喫茶を知ってますか?」
「鈴羽でいいよ〜。あたしもハルヒって呼んでいい?」
「そう? それなら鈴羽さんって呼ばせてもらうわ」
「うん。あ、そうだ。ああ、メイクィーン+ニャン2ってメイド喫茶があったなあ。パパが、いっつもいりびたってるトコなんだけど……。猫耳メイド喫茶でもいい?」
「ふ〜ん。猫耳かあ。みくるちゃんにも猫耳つけてみようかしら」
などと、もう俺が着いたときには、この二人は仲良くなって居やがった。
まあ、確かにハルヒはああだし、阿万音鈴羽の明るくて物怖じしない性格から考えると、まあ、相性はいいのだろう。
しかし、だ。ただでさえ、ハルヒのせいで女性陣の発言力に押し切られそうなのに、これ以上女性比率が増えては、いっこうに勝てる気がしない。
というか、困ったことがひとつある。
俺たち男性陣には、これからあのクソ重いIBN5100を運搬するという大仕事があるのだ。
正直、これがあるから秋葉原に行くのは憂鬱だったのだ。
アレは人間の持てる重量を軽く超えている。
あんなものを古泉と二人で抱えていては、駅まで辿り着けるかどうかも怪しい。
というか、腰を壊す。間違いない。
子孫繁栄に重大な過失となるやもしれない。
アレだ。
長門の横にちょこん、と置いてあるダンボール。
はっきり言って逃げ出したい。
あんなものを抱えて秋葉原観光などしたくない。
横目で古泉を眺めると、コイツもどうやら同意見だったらしく、いつもの爽やか笑顔にキレがなく、どんよりと暗い瞳でこちらをのぞき込んでいた。
ああ、憂鬱だ。
「キャリーバックか何かで運べないのか?」
「……無理です。いや、運ぶだけなら運べますが、振動によって壊れないとも限りませんし……」
などと陰鬱な会話をしている男二人の横に長門が、ぬっと顔を出した。
コイツはいつもいつも……。
お願いだから、急に近づかないで、なにか一言かけてくれ。頼む。
「……そう」
とボソリとつぶやくと、ハルヒと阿万音鈴羽が、何やらかしましく話している最中、その視界に入らないように、IBN5100の入ったダンボールに手を当てて、ぼそぼそと、ものすごい早口で、例の呪文を唱え始めた。
「………………長門?」
という、俺の問いかけに答えずに、長門は、小声の呪文を唱え続ける。
「……長門さん? 貴女は何をしておいでなのですか?」
誰にも聞こえないぐらいの小声で尋ねたのは古泉だった。
しかし、黙殺。
およそ30秒ほどだったろうか? 長門が呪文をINB5100にかけていたのは。
そして、長門は呪文を唱え終わると、
「持ってみて」
黒曜石の瞳でこちらを振り返り、そう促した。
おそるおそるクソ重かったダンボールを持ち上げてみると、バカみたいな重さは薄れ、俺一人でも持ち運べる程度の重さになっていた。中身がみかんか何かになったような感じだ。
長門? お前何をした?
「IBN5100の重量操作。地球からかかる引力を1/6に低減した」
つまり、あれか?
あのIBN5100の鬼畜な重量を、月でと重さに変えたということか。
「そう」
相変わらず唐突だな。いや、嫌がっているわけではないんだが……。
「必要な措置だった。あの重さのまま秋葉原まで持って行ったと仮定すると、貴方の左側広背筋がIBN5100を運び出してから47分35秒後に痙攣を始め、小泉一樹の大殿筋が1時間5分12秒後に一部破断する。その五秒後、IBN5100は落下し重力加速度で破壊される可能性が大。そうしたら秋葉原の未来ガジェット研究所にIBN5100を持っていくのは不可能。阿万音鈴羽がこの時空間に来た理由がなくなる」
まあ、確かにありがたいんだが。
どうやら、口ぶりから阿万音鈴羽のためであるらしい。
そういえば、なぜ、この宇宙人とあの未来人は仲良くなったのだろうか?
始めの頃は、阿万音鈴羽は間違いなく長門に苦手意識を持っていたはずなのに。
「それはわからない。ただ」
長門は阿万音鈴羽の方を向いて、ぼそりと呟いた。
「阿万音鈴羽の母親と、私の名前が同じらしい」
なるほど。
どうやら阿万音鈴羽のほうが、長門に親近感を持つようになったというのが真相のようだ。
コイツは無口でコミュ能力は皆無だが、時折とてつもなく優しいんじゃないかと思うことがある。
たびたび、ひょっとして? と疑問を感じるのだ。
誰がやったのかは分からないが、SOS団絡みのことで、誰かが帳尻を合わせてくれたとしか思えないことが何度かあった。その裏で活動してくれていたのは、長門ではないか?
もしかしたら、長門は俺達の気付かないところで、なにかおかしなことを未然に解決してくれているのかもしれない。
だからといって、俺に出来るできることはなにもないわけだが。
「ああキョン。それが荷物ね? それじゃあ行くわよ」
ハルヒがダンボールを持った俺を覗き込んでいた。
どこへだ? などと聞いたところで、答えは決まっている。
「決まってるじゃない。一度行ってみたかったのよねえ。ほら、キョン。だらだらしてないでシャンとしなさい!! ほら、行くわよ。オタクの聖地。魔界都市秋葉原へ!!」
真夏の太陽みたいに鬱陶しい顔で、ハルヒは言いやがった。
そんなこんなで、俺達は何を血迷ったのか秋葉原駅にいた。
まあ、どこからどう見ても、秋葉原を観光しにきた五人の高校生+一人なわけだが。
俺としては、このダンボールの荷物をさっさと、未来ガジェット研究室とやらに送り届け、それからのんびり秋葉原観光にでも洒落込みたいと思っていたのだが、そのささやかな願いは阿万音鈴羽によって裏切られた。どうやら、この時間軸には過去の阿万音鈴羽がまだ存在するらしく、今日の午後16:00以降にならないで未来ガジェット研究所へとIBN5100を持って行かないとタイムパラドックスが発生するのだそうだ。いや、正確にはアトラクタフィールドがどうのこうので、過去の自分に自分は会っていないから16:00まで待たないといけないとかなんとか。無理に未来ガジェット研究所へ行こうとしても、世界線の収束とやらによって、運搬するのは不可能だということを、難解な理論つきで昨日解説されたのだが、はっきり言って半分どころか1/10も理解できなかった。
結局、古泉が「そうですか。ではそのほうが良いでしょう」とか何とか言っていたので、俺もそれに乗っかることにした。
というわけで、それまでの間、未来ガジェット研究所とラジオ会館前以外の秋葉原観光へと洒落込もうということになった。
とりあえず、屋台でドネルケバブを買って、妙な味のジュースと一緒に食った。馬鹿みたいに辛いソースを選んで目を真っ赤にしながら食っていたのがハルヒ。ヨーグルトソースを哲学的な顔で黙々と食べていたのが長門。朝比奈さんと阿万音鈴羽はマイルド。俺と古泉はソース無しのオリジナルだ。
その後、馬鹿でかいゲーセンに入り、格ゲーをやったはいいが、小学生女子に乱入されて、速攻で瞬殺された。妹と同世代に、全くイイところなしの大惨敗。俺を瞬殺した少女は周囲にギャラリーを集めるほどに連勝していたが、一人でブツブツと「……はっ? ぬりぃんだよぴょんぴょん飛びやがって兎かよテメーは。SGGKもまともに使えねえくせ春使うなんてバカじゃねえの? おらさっさと地面に這いつくばれKSが……」などとつぶやいており、正直怖かった。
女性陣はと言えば、俺のしょっぱい格ゲーに早々に見切りをつけて、クレーンゲームへと精を出し、長門がゴールドうーぱクッションを引き当てている。
古泉は? といえばいつの間にか姿を消しており、気がついたら一人寂しくクイズゲームへと勤しんでいた。しかもこの時期に宝石賢者。間違いなくやりこんでいる。
そして、恒例の不思議なもの探しであるが、これはアレだった。初めての街ということで、二グループで別れるよりはと全員でやったのだが、この街で不思議なもの探しなどやったらどうなるか? いや、見事に不思議なものしかない。
もっと正確に言うのならば、街の存在自体が不思議であり、奇妙奇天烈なものなどそのへんの店前に普通においてあって話にならない。駅前でメイドさんがチラシを配っている街など、世界広しといえどここだけであろう。
怪しいものなど、なんに使うのかわからないパーツショップへと入ればそれこそ腐るほど見つかった。結局、開始三〇分で発見した不思議なものは一〇を超え、こうなってしまってはありがたみも何もあったものではない。
そう言えばハルヒは、光線銃型テレビリモコンなどという益体のないシロモノを喜んで購入していた。「チャンネル送りしか出来ません」と書かれているものである。
そんなこんなで、第一回不思議なもの探しin秋葉原〜は、つつがなく終了し、俺たちは、猫耳メイド喫茶へと向かっている。
それにしても、メイド喫茶である。いや、考えても見れば我がSOS団は朝比奈さんという、最高のメイドを擁しているのだから、メイド喫茶に抵抗があるとかないとか格好をつけたところで、なんの言い訳にもならないのだろうけれど。しかし、女子と一緒にメイド喫茶に行くというのは、なかなか気恥ずかしい。
そんなこんなで、俺たちはメイクィーン+ニャン2の扉を開けた。いや、開けたのは俺ではなく、ハルヒなのだが。
「お帰りニャさいませ♪ ご主人様、お嬢様♫ 大好きニャン♪」
と出迎えてくれたのは猫耳をつけた、美少女猫耳メイドだった。それにしても睫毛が長い。
「あら? 鈴にゃん。来てくれるとは珍しいニャ。それもこんなにお客さんを連れてきてくれるニャンて」
「あはは〜。まあね〜。ところで秋葉留未穂。今日ここに来たことは、ラボのみんなに内緒にしておいてくれないかな?」
「その真名はだめニャ。ここではフェイリスにゃ!! 凶真たちに内緒にしておけばいいのニャ? 了解したニャン!!」
どうやらフェイリスというのがこのピンク髪の猫耳メイドの源氏名らしい。
何でもいいが、語尾にニャとかニャンとかつけていて舌を噛まないんだろうか?
お客様6名様ご案内〜、とばかりに奥のテーブルへと通される。
店内は明るい色使いでシックな内装。店内のウェイトレスさんが全て猫耳メイドでなければ、普通の喫茶店とそう変わらない。
しかし、それゆえに、ほかの喫茶店と違うところが異様に目立つのである。
ふと横を眺めると、何やら朝比奈さんは熱心にメモをとっていた。メイドの極意を学ぼうとでもしているのだろうか? 変なところで真面目な人である。
それにしても、コーヒーにガムシロップを入れてくれるのはいいが、こちらの目を見ながらかき混ぜるのは一体何だったのだろうか? いや、あれはかなり驚いた。是非、文芸部の部室で朝比奈さんにもやってもらおう。
「なかなか面白い街じゃない? あたしは気に入ったわ」
と、文字入りカプチーノを口につけてご満悦なのは、SOS団の団長様だ。
「ユニーク」
誰に聞かれるでもなく長門がつぶやく。コイツが言ったのは、この街のことか? それともデカデカと“萌”と書かれたオムライスのことだろうか?
「楽しんでいただけたようで何よりです」
とは古泉。
とりあえず、今回の件は、表向きは古泉の知り合いの阿万音鈴羽が、重たい荷物運びのバイトをSOS団男子に依頼して、ついでだからSOS団全員で秋葉原へと観光してしまえということになっている。未来人のIBN5100の件も解決するし、ハルヒの退屈しのぎにもなるしで一石二鳥ということらしい。
「でしょ〜。面白い街だよねえ〜」
とは阿万音鈴羽。
確かに、それに関しては同意せざるを得ない。別にオタクというわけではないが、オタクだったら更に面白い街なのだろう。コンピ研の部長たちがこの街に来たら、更に面白いのだろうと考えると少々思うところがないでもない。いや、別にオタになりたいと言う願望があるわけではないが。
というわけで、俺達は未来ガジェット研究所の前にいた。
何というか、アレだ。非常に気マズい。というのも、原因は阿万音鈴羽である。
何やら落ち着かない素振りでいたのだが、未来ガジェット研究室の下にあるブラウン管工房からぬっと出てきた筋骨隆々のハゲオヤジに「テメエコラっ!! バイトぉ、今までどこほっつき歩いてやがったァ!!」
と首根っこ掴まれて連行されてしまった。どうやらここでバイトとして働いていたが、なにも言わずに過去へと飛んだらしい。
そりゃあ怒られる。
出てきたハゲオヤジは、一緒にいた俺達を一瞥すると「何だお前ら」とスゴんできた。
しかし、ハルヒはビビるどころか腰に手を当てて、
「SOS団団長。涼宮ハルヒよっ!! 今日は未来ガジェット研究室に届け物があってきたのっ!!」
と自信満々に断言する。
出てきたハゲオヤジは、以外にも穏やかに笑うと、
「ああ、岡部んとこの客か。また女を連れ込みやがって」
などと割合あっさり納得し、ぶつくさ言いながら、俺たちを二階へと案内した。
「おい、岡部ぇ。居るかぁ〜!!」
扉を開けると、四人の男女がこちらをじっとこちらを凝視していた。
「…………な、なんだ。ミスター・ブラウンか。脅かさないでほしい。我々は、いま、大事な客を待っているのだから……。それと何度も言っているが俺は、岡部ではなく、鳳凰院凶真だっ!!」
「だから、岡部。その客を連れて来てやったって言ってんだよ。コイツらだろう?」
そうして俺たちを、巨体の後ろから引き摺り出すように、紹介した。
「あ。いや、ミスターブラウン? 私達がお待ちしているのは、レトロPCを持った高齢のご婦人なのだが?」
「そうなのか? でもお前に会いに来たのはコイツらだ。じゃあな〜」
とそれだけ言い残して、ハゲオヤジはのっしのっしと去っていった。
当然、後に残されたのは、阿万音鈴羽をバイトに奪われた俺達だけである。
どうする? 古泉?
SOS団一の仕切り屋は、ほっぺたをポリポリと掻いてから、どうやら直球勝負に出ることにしたらしい。
「あー、未来ガジェット研究所の皆さん。あの、阿万音鈴羽さんから、お届け物を依頼されてこちらまで参りました。SOS団の古泉です。よろしくお願いいたします」
白衣を着た無精髭の男は、阿万音鈴羽と言う名前にビクンっと反応し、
「なにっ!? バイト戦士の使いか!! そうならそうと早くいえばいいものを!!」
とか叫んでいた。
どうでもいいが自己紹介ぐらいしてほしい。
「おっと、それは失礼。では我がラボメンの紹介をしよう。まず、あそこでコミマ用のコスをいじっているのがラボメンナンバー002の椎名まゆり!!
あの帽子をかぶっていて太っているのが、我が頼れる右腕にしてスーパーハカーっ!! 003のダル!!
あの改造制服を着て終止仏頂面な女は、ああ見えてサイエンス誌に論文が載った脳科学の権威にして、私の助手。004、牧瀬クリスティーナっ!!
そして、この俺は、世界の支配構造に破壊と混乱をもたらし、混沌の未来を作り上げる狂気のマッドサイエンティストにして天才科学者!! 鳳凰院凶真だ!! フワーハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
痛々しい、沈黙。
アレだ。
こういう人間には心当たりがある。
厨二病と妄想の権化。脳みその中がユカイで埋まっているハッピーな人種。
普通の人間ならば、中学校を卒業する段階で捨ててしまう、自分が特別だという妄想を、高校になっても持ち続けている人間が。
おそるおそる振り返ると、そこには爛々と目を輝かせたハルヒがいた。
「いいじゃない!! うん。いいキャラしてる。おもしろいわ、貴方!!」
ヤヴァイ。
これはヤヴァイ。
同類二人。会ってはいけない人種が出あってしまった瞬間だった。
起こるのは当然化学反応。
「ほほ〜う!! 我が偉大さが多少なりとも理解できるか? 女子高生よ?」
「涼宮ハルヒよ!! 笑顔が爽やかなのが古泉くん!! そこの荷物持ってぼさっとつっ立ってるのがキョン!! 胸が大きくて童顔なのがみくるちゃん!! 無口ですごく良い子なのが有希よ!!」
急にハイテンションになりやがった。
古泉を振り返ると、顔にデカデカと困りましたねえ、と書いてあった。
俺も同感だ。
「それで、未来ガジェットってなによ? 何を作ってるの?」
「知りたいか? 女子高生よ? ならば教えてやろう、こちらへと来るが良い!!」
と自信満々に言い放つと、部屋を区切っていたパーティションを、バサ!! と開き、なんに使うのかわからない物体を大量に持ってきた。
アレだ。
俺たちにできることは、ハルヒがなにか変なことを思いつかないように願うだけだ。
なあ、古泉。
というわけで、俺は八月十三日。秋葉原駅にいた。
いつものSOS団の面々に阿万音鈴羽を加えて。
本来は、俺と古泉、阿万音鈴羽嬢の三人でIBN5100を秋葉原まで運搬する予定だったのだが、残念ながら運命の扉はそれをよしとはしなかった。
孤島で支離滅裂な推理劇を演じることになったSOS団夏合宿を終え、田舎でだらだらと遊び倒し、綺麗さっぱりSERNだの阿万音鈴羽だのタイムマシンだの夏休みの宿題だのといった、細々したことを忘れ去っていた夏の日。
秋葉原に人工衛星が突き刺さろうが、それがいつの間にやら消え去ろうが、知ったことではないという人生を歩んでいたはずだったのだが。
それは古泉からの電話が始まりだった。
なにかを忘れている。
そう気がついたのは、八月十一日。昼まで眠りこけ、お袋の作ったそうめんをすすり、さあ、牛にでもなるかとゴロゴロし始めたころだった。
夏休みの宿題なんぞやる気にもならず、ただひたすら同年代の甲子園球児たちの活躍を、ああ大変だなあと見物しながらまどろむ日々。
何もすることがない。かといって何かしたいわけでもない。
思春期特有の衝動も、将来に対する不安から来る焦りも、ただひたすらにぼけ〜っとした夏休みの気だるさに押し流されて、遥か彼方に霞んでしまっている。
ハルヒが奇妙なことを言い出さない夏の休日。それはとてつもなくかけがえのない一日だった。
平穏無事。
それはきっと世界が創りだした、最高級の贈り物だ。
ハルヒが、急に野球だのアメフトだのをやりたいとか、孤島に合宿に行きたいとか、ツチノコを捕まえにキャンプに行くとか、そんなことを言い出さない。ああ、なんと素晴らしい夏の日々なのだろう。
そんなことをだれに聴かせるわけでもなく、散々寝たのにまだ寝足りないと叫ぶ怠惰な脳みその中で考えているとき、無造作にポケットの中に突っこんでいた携帯電話が鳴りはじめやがった。
着信を確認する。
いったいこんな時期に、俺に電話をかけてくる暇人はどこのどいつだと口の中で文句をつぶやきながら、携帯のディスプレイを観ると、表示されている主は、SOS団の副団長、古泉だった。
さっさと通話ボタンを押せばいいものの、面倒くさいと感じる辺り、俺は間違い無く怠け者だ。
着メロが一周して終わり、もう一度最初から鳴り響きはじめたころ、観念して俺は通話に出る。
「すまん。待たせた」
というのが俺の第一声だった。
『いえ、こちらこそ。お忙しいところ失礼しました』
などと丁寧な口調で答える古泉。
いや、昼飯食ってゴロゴロしていたところに、着信があったからメンドクサイと思って当分出なかったというのが真相なのだが。
「それで、一体何の用だ?」
『覚えていらっしゃいませんか。例の件ですよ』
古泉は、覚えていて当然という口調で話しかけてくるが、皆目検討もつかない。もしかしたら、夏休みの暇さにあてられて、若年性健忘症を発症してしまったのかもしれないな。
『ほら、阿万音鈴羽の……IBN5100の件です』
ああ、思い出した。あの一億以上する馬鹿高いパソコンか。
『ええ、やっと入手出来ましたので、一応貴方にもご報告しようかと』
ほほう。ついにゲットしたのか。すまん。綺麗さっぱり忘れていた。
『それで、今から阿万音鈴羽女史に引き渡すのですが、良かったら貴方もいらっしゃいませんか? もしお忙しかったら無理にとは申しませんが』
忙しくはない。
というかむしろ暇だ。
いや、世界暇な男選手権があったとしたら、間違い無く日本代表にエントリーできるぐらいだ。なので、妙な遠慮はしなくていい。
『そうですか。それでは長門さんのマンションに来ていただけますか? 詳しい話はそこで……』
「わかった。すぐ行く」
その返答を聞くと、即電話は切れた。古泉にしてはめずらしい電話の切り方だった。
いつもならば必ず、何かしらワンクッション、挨拶を挟んでから会話を閉じるのが古泉という男のはずだ。
そう言えば、声がどことなく疲れきっていたような気がした。
何かあったのだろうか?
わずかに不吉なものを感じつつ、俺は、自転車の鍵を取り出すと、冷房のガンガン効きまくった部屋から抜けだす。
やかましいほどののアブラゼミの大合唱を聞きながら、大量の熱気を一身に浴びて、俺は長門のマンションへと向かった。
「……お待ちしていました」
何やら底知れない微笑みを浮かべて、古泉はマンション前にいた。
どことなく青白い顔をしている。
その瞬間に悟った。この空間はヤバい。なにかがヤバい。
いつもどおりの高級分譲マンションのはずなのに、危険な匂いがプンプンと漂っている。
「……どうした? 古泉?」
不審がる俺に、
「……別にどうもしていません」
古泉は微笑を浮かべて答える。しかし、いつもどおりの人畜無害の古泉スマイルでも、たまに見せる悪役スマイルでもない。
そう、アレは、地獄に落ちた餓鬼が、仲間を増やそうと罠をはるときの……
なにか、気温は36℃を超えているというのに、背中が薄ら寒くなるのを感じつつ、俺は古泉の足元に眼をやる。
そこには、みかんの箱程度の段ボール箱があった。
「古泉。それは?」
「ああ、これが、例の物ですよ」
「IBN5100か?」
「そうなります」
……案外小さいんだな。過去のレトロPCと言われたから、もっと馬鹿みたいにデカイものかとかってに想像していたのだが。
「……それでは、長門さんの部屋に運ぶのを手伝ってもらえますか?」
「ああ」
そうして二人でIBN5100の箱を持ち上げ……。
……持ち上がらなかった。
なんだこれは!?
重い。超重い。
「……腰を痛めないようにして下さい。とてつもなく重いですから」
気を取り直して、膝のバネを使い、よっこらしょっ!! と声をかけて、全身に力を入れる。
二人がかりで、ようやっと数センチ、ダンボールが宙に浮く。
「……お、重い」
間違いない。この箱のなかに入っているのは鉄の塊だ。
ズルズルと身体を引きずるようにして運ぶ。
足首、手首、背筋、そして何より腰に、信じられないほどの負荷がかかる。
「……床にぶつけないようにして下さい。あと、できるだけ引きずらないように……機関がコレを入手するのに、結局三〇〇万$程かかりましたから」
三〇〇万$。……単純計算して二億四〇〇〇万ほどか?
「……ええ。米国の大富豪が二台所有しているのを、機関のつてで一台貰い受けました」
古泉は、誰もが知っている米国の起業家の名前を口にした。その起業家からどうやら買い取ったらしい。
「……それで機関の者が入手したのですが……ひたすら重いです。ここまで重いとは、正直予想を超えていました」
「……宅急便を仕え。二億四〇〇〇万も払えるんだから宅急便代ぐらい出せ」
妙なところで経費をケチるな。宅急便のお兄さんに長門の部屋まで運び込んでもらえ。
「……ほ、保安上の都合から、残念ながら、それは出来ません……でした……盗まれでもしたら、二億四〇〇〇万が……無駄になります。そ、それに……事故か何かで壊れてしまったら……と思うと……宅急便なんて、とてもとても」
…………。まさか、お前たち機関は、このクソ重いダンボールを米国から引きずって持ってきたんじゃないだろうな?
「……残念ながら……その通りです」
古泉の言うことには、今回のように機密文書や高額の貴重品などを、一般の流通経路などを通して安全に運ぶのは、ほぼ不可能らしい。運搬に万全を期さねばならない場合は、専用の運び屋を使うか、あるいは自分たちが持ち運ぶしか無いのだそうだ。
必死の思いをして男二人で、運んでいるのに、未だに開始地点から一〇mも進んでいない。
「……機関とか言うんだから、他に人はいないのか?」
「……それぞれの仕事で……出払っています……。暇なのは、夏休みで学生の僕だけという有様で……。それに……」
「……それになんだ?」
「……。このIBN5100を運ぶ仕事だけは、誰もやりたがらず……下っ端の僕にお鉢が回ってくるという有様で」
古泉の額には、凄まじい量の汗が光っている。そうか、なるほど。俺を呼んだ理由が解った。
コイツは、長門のマンション前まで、IBN5100を運んで力尽きたのだ。
だからといって、俺を道連れにするのは勘弁してほしい。
「……あの、阿万音鈴羽に手伝わせろ……。あの女が……元はと言えば……全ての元凶だろ……」
「……ただいま……駅前の……コンビニでアルバイト中で……忙しいとのことです」
その言葉を聞いて、俺は、レトロPCを落とさないように注意深く、しかしがっくりとうなだれた。
阿万音鈴羽がスキップをしながら帰ってきたのは、夕方になってからだった。
「お帰りなさい〜。あれ? 君たちも来てたの?」
「「…………」」
男二人の、殺意にも似た恨みの視線。
それも無視して、阿万音鈴羽は、あはは〜と笑いながら長門に封筒を差し出していた。
「はい。これ」
「なに」
「家賃と食費。初めてのバイト代が入ったから、とりあえず払っておかないと〜」
そうして阿万音鈴羽は、茶封筒を拝むように長門に手渡す。
長門はといえば、「そう」と小声でつぶやくと、いつもどおりの無表情で封筒を受け取り、懐に仕舞いこんだ。
「そして、こっちはお礼のプレゼント」
と、背中に隠していたハードカバーの本を取り出す。何やら、ペンギンが超高速で走り出しそうなタイトルの本だった。
「…………」
長門は唇を閉ざして、鈴羽を凝視した。氷が溶けて水になる位の時間を掛けた後、
「そう」
と呟くと、雪のように白い手で、その本を受け取った。
この未来人と宇宙人は、いつの間にやら、プレゼントを送ったり受け取ったりする仲になっていたらしい。
なんというか、意外だった。
長門の表情が、だ。
いつもどおりの淡々とした表情だが、極わずかに、柔らかい物が混じっていたような気がしたからだ。
阿万音鈴羽が言うには、
「父さんの本棚にあった本が、本屋さんにあったから買っちゃった」
ということらしい。
そしてこちらを振り返ると、
「それで、君たち、今日は何しに来たの?」
などと、腰から力が抜けそうになるようなことを言いやがる。
「……IBN5100が手に入りましたので、お届けに上がりました」
そう応えたのは古泉だ。
よく観ると、古泉のほほのあたりがぴくぴくと引き攣っている。
「おお〜、すご〜い。やるねえ。大変じゃなかった?」
と拍手しだした。
「……ええ、ほんとうに大変でした」
と、腰をさすりながら古泉。何やらじじ臭い。まあ、あんなものをはるばる米国から運んできたのだから、腰の一つも痛くなろう。
しかし、色々とすったもんだはあったが、これで一件落着である。
このとき俺は、そう思っていた。
しかし、この平穏は十秒足らずで破られることとなる。
「じゃあ、明後日の八月十四日は開けておいてね〜!! 朝から秋葉原に行くから〜!!」
……はい?
この女は今なんと言った?
「ええと? 俺たちも行くの?」
「当たり前じゃん。あれ重いでしょ? あんな重たいものさあ、あたし一人じゃ持てないって」
確かにそうだ。あんなものを秋葉原まで、どうあがいても女性一人では持ってはいけないだろう。
「それに、そこの古泉くんは、Dメールを使いたいんでしょ? 秋葉原まで手伝ってくれてもいいんじゃない?」
「…………はい」
初めてだった。古泉が不承不承にうなずくのを見るのは。
そして、俺達の秋葉原行きは、なし崩し的に決まってしまった。
しかし、それはまだこれから起こる悲劇の序章でしかなかったのだ。
俺と古泉は、あの女のことを忘れていた。できることならば、記憶の隅にだけ留めておきたかった名前。
一度動き出したら、否応なく巻き込まれてしまう、歩く迷惑、息をする傍若無人。
そう、あの女。涼宮ハルヒのことを。
ハルヒから唐突に電話がかかってきたのは八月十二日の午後だった。
『明日あんたヒマ?』
と名乗りもせずに、居丈高な口調で聞いてきた。
『まあ、どうせヒマよね? 二時ジャストに駅前に集合だから。ちゃんと来なさいよ? 持ち物はね……』
などと、俺の返答を一切聞かずに話をすすめるハルヒを、
「待て。ハルヒ。俺は明日いないぞ?」
なんとか制止させる。
『……なによ? 夏休み中ずっと暇そうにしてると思ったのに。一体何の用があるってのよ?』
と、急に不機嫌になる。
「悪いが、俺は明日、朝から秋葉原に行くんだよ」
『秋葉原? なんであんたわざわざそんなところまで行くのよ? アイドルのイベントでも観に行くの?』
あいにく、俺のアイドルは朝比奈さん一人で十分だ。
「古泉、それに、長門も一緒だ。ちょっと用事があってな」
ほんの僅かの沈黙。
『なに? 古泉くんに有希も一緒なの?』
その後、ハルヒは怪訝そうな声で聞いてきた。
「ああ、そうだ。だから明日は無理だ。またの機会にしてくれ」
『なによ、それ。まあいいわ、解った。それじゃ』
というが早いかすぐに電話を切る。
これが厄介事の始まりだなどと、このときの俺には、予想さえもつかなかった。
しかし、俺の離れていたところで、異変を即座にキャッチした不幸な男がいた。古泉である。
ハルヒの電話が終わってから二分ほどして、古泉から電話がかかってきた。
『もしもし?』
心なしか慌てているような、声が聞こえた。
『なにがありました?』
俺がなにか言うよりも早く、詰問してきた。
『たった今、涼宮さんが、かつてない規模で閉鎖空間を広げています。貴方に心当たりはありませんかっ?』
知らん。
ああ、でもハルヒから電話はかかってきたな。
『その電話の内容を教えて下さい』
「いや、大した内容ではないぞ。『明日ヒマか』って聞かれて、秋葉原に行くから忙しいって、答えただけだ」
『……それだけですか?』
疑うような声で聞いてくる。
ソファーにゴロゴロと転がりながら考える。
「お前と長門も一緒だから、またの機会にしてくれって」
『それです』
と、断言された。
『いいですか? 涼宮さんは、SOS団の団長です。この夏休み、いろいろな計画を練っておられたことは、貴方もご存知でしょう?』
まあ、妙な合宿に行って、珍妙なミステリー事件を解決したりな。
『そうです。他にも、色々と我々を楽しませるために計画をきっと練っておられたことでしょう』
そうかもしれないな。
『その我々が、涼宮さんを蔑ろにして、SOS団のうちの三人が、こっそりとどこかに遊びに出かけたとしたら、涼宮さんはどう思うでしょうか?』
つまりあれか?
「ようするに、ハルヒは、自分がハブられたと思って不機嫌になってるわけか?」
『そういうことです』
そんな、馬鹿馬鹿しい。
仲間はずれだの、ハブられただの、そんなのは単なるハルヒの妄想だろうが。
俺たちは、ただ、あのクソ重い箱を、運びに行くだけだぞ?
『涼宮さんは、中学生のときからあまり他者とかかわってこなかった。だから、そういう機微には疎いんです。だから、ちょっとしたことでも過敏に反応してしまう』
そんなのは、ハルヒが自分で選んだ道だろうが。孤高ってやつだ。
それが今更ハブられたからって、ムシャクシャするものかね?
『中学まではそうだったかもしれません。しかし、今は、彼女も我々に関わろうとしています。だから、お願いします。涼宮さんに、貴方から秋葉原に誘っていただけませんか?』
なんだそりゃ?
何度も言うが、俺たちは、荷物運びに行くだけだぞ。
それに、どうしてもというのならば、お前から誘えばいいじゃないか。
『いいえ。わかりませんか? 貴方からでなくては意味がありません。このとおり、お願いします』
どうやら、電話の向こうで頭を下げているらしい古泉。
困った。
しかし、今回の一件では、古泉には多大な迷惑をかけている。
ここでひとつぐらい、お願いを聞いてやっても、バチは当たらないかもしれない。
「ああ、解った。ハルヒには俺から電話をかけておくよ」
そうして、返答を待たずに電話を切る。『ありがとうございます』と言われるのが嫌だったからだ。
そして、携帯の電話帳の中から、SOS団の団長の電話番号を検索し、コールする。
ワンコールでハルヒは出た。
「ああ、ハルヒか?」
『なによ?』
つっけんどんな団長様に、提案する。
「明日、古泉の知り合いの手伝いで、秋葉原まで荷物を運ぶんだがお前も来ないか?」
『なに、荷物運びなの?』
「ああ、荷物運びの手伝いなんだが、さっき古泉から電話があって、せっかく秋葉原に行くんだから、いっそのことSOS団みんなで秋葉原に行かないかって、話になったんだが……」
『ちょっと待ちなさい。キョン、いい? そういう話はあたしに一番最初に持って来なさい』
ハルヒは、俺の話を無理やり遮る。
なんでだよ。別にいいじゃないか
『良くないわ。だってあたしは……』
ハルヒは声を一旦切り、そして電話越しにこう宣言した。
『SOS団の団長だからよ!!』
そして急に、やかましくまくし立て始めた。
『そういえば、キョン。アンタ、まさか、みくるちゃんをハブるつもりはないでしょうね? みくるちゃんも呼ぶわよ! いいわね? あと、せっかく行ったことのない街に行くんだから、不思議なもの探索もやるからね。他はええと……』
古泉の言うことも当てにならねえな。
全然、機嫌が悪くなんて無いじゃねえか。
延々と電話口の向こうで、秋葉原へと繰り出して遊ぶプランを上機嫌で考えているハルヒの声を聞きながら、俺はそんなことを考えていた。
長門のマンションに来るのは、一体これで何度目だろうか?
しかし、古泉と二人で長門の部屋を訪れるというのは初めてだ。
困ったことがあるたびに、長門のマンションを訪れているような気もするが、今回は、話し合いの場所として使用させていただくこととなった。
あのジャージ少女(阿万音鈴羽とか言うらしい)と、我がSOSの副団長との会合ををセッティングしたのはいいものの、その立会人として、俺も出席することとなった。阿万音鈴羽が俺を指名したのは、一体なぜであろうか?
まあ、朝比奈さんは頼りないし、長門はあの通りだし、結局俺にお鉢が回ってくるのは当然の帰結であると主張されれば、顎をかくかくと鳴らして肯定するしか無い。
古泉は、微笑みながらも困った顔をして、「貴方には、あまりこういった交渉ごとに参加すべきではないと思いますが……」などと小言を口にしていた。
やかましいわ。俺だって代打がいたらさっさとそいつにバトンを渡して、ヒマを持て余した猫のようにゴロゴロしていたい。
さて、渦中の阿万音鈴羽女史であるが、長門の話では未来人の特性を生かして何らかの工作活動に勤しんでいるのかと思いきや、携帯で@ちゃんねるにどうでもいい書き込みをしたり、長門のSF本を読み漁ったりと、退屈を持て余した暇人ライフを満喫しているらしい。
何を勘違いしたのか、未来から来た工作員のくせに、バイト雑誌を広げ「サボって給料もらえる仕事はないかなー」とか、労働を舐めきった言動を繰り返しているとか。
謝れ。頑張って働いている日本の労働者に謝罪しろ、と声を荒らげたくもなる。
しかし同時に、あ〜楽して銭がもらえるのならばそれに越したことはないという点には同意せざるを得ない。
結論。未来にもニートは居る。間違いない。
長門の部屋のインターフォンを鳴らすと、扉が音もなく開いた。
「……入って」
そう無表情のまま、長門が出迎える。
「お邪魔します」
と、無駄に爽やかに会釈して入室する古泉。
なんというか、アレだ。ご挨拶に来た彼氏みたいな顔だ。
さて、これから未来人(仮)と超能力者(中途半端)の血で血を洗う、生き馬の目を抜くような会合が始まるのかと思うと、胸が熱くなる。
――ああ、わかってるさ。
そんな、殺伐としたものにならないってことぐらいは。
もしも、そんなひどい交渉ごとになるのならば、古泉はそもそも俺をこの場に同席させようとはしなかっただろうし、長門がそんな状況を許そうとはしないだろう。
長門の部屋で荒事など、起こせる人間が居たとしたら、それはもう人類ではない。人類の形をした何かだろうな。
「あ、キョン。こんにちわ〜。キミも来たんだ〜。今日はよろしくっ!!」
そう賑やかに声をかけてきたのは、もう一人の未来人。阿万音鈴羽だった。
どうでもいいですが、貴方も俺のことをキョンと呼ぶんですね……。
「だって、私、キミの名前知らないもん」
そう言われると、確かに教えた記憶が無い。
まあ、教えるような大した名前ではないが、キョンと呼ばれるよりはマシだろう。
「へえ、いい名前だね。壮大で、宇宙の星を思わせるような」
それが、阿万音鈴羽女史が俺の名前を聞いたときの感想だった。
「まあ、それほどでも」
「でもやっぱりキョンのほうが親しみやすくていいかな。キョンくん?」
ああ、貴方も結局キョンと呼ぶのですね……。
もしかして、俺は、大学に行っても、就職してもキョンと呼ばれ続けるのだろうか?
そんな運命は断固拒否したい。
台所では、長門がエプロンもつけずに何やら作業をしている。
茶でも出してくれるのだろうか?
「ところで」
横から古泉が話しかけてきた。
「そちらの女性が未来から来られた方でよろしいですか? 出来れば紹介していただければありがたいのですが」
と、今まで黙っていたのは、どうやら事故紹介する機会を伺っていたらしい。
「ああ、すまん。こちらは未来から来た阿万音鈴羽さん。三年前に東中の壁に突き刺さった人工衛星の中に居た。こっちは超能力機関の工作員で、我がSOS団の副団長、古泉一樹だ」
「鈴羽って呼んでくれていいよ」
そう口にするが、わずかに硬いものが混じった声の鈴羽女史。
「古泉です」
古泉はというと、いつものように微笑みながら会釈する。
のわっ!?
と、俺達、男二人の背後から、にょっきりと白い手が伸びる。
言葉ひとつ発さずに、俺と古泉の間を長門は通りぬけ、卓袱台の上に湯のみを置き、こぽこぽとお茶を淹れ始めた。
「どうぞ、座って」
気遣いはありがたいんだが、唐突なんだよ、お前は。
家主の指図どおり、俺たちは卓袱台を挟んで座り、未来人と超能力者の会合はなんとも言えない雰囲気で始まった。
「なるほど。なぜ、IBN5100というレトロPCが必要なのかはわかりました」
阿万音鈴羽の説明をひと通り聞いて、古泉は微笑む。
が、しかし。俺にはさっぱり分からなかった。
Dメールがどうの、SERNがどうの。
古泉。わかってるなら俺にも理解できるように解説してくれ。
「要するに、秋葉原にある未来ガジェット研究室の研究成果を奪われないように、SERNのデータベースにクラッキングを仕掛けて、補足されたDメールという時間を遡及したメールを消すためにIBN5100の独自言語が必要、ということです」
全然判らん。もっと噛み砕いてくれ。
「IBN5100を秋葉原に持っていけば、SERNの世界支配は頓挫する。未来ガジェット研究室も無事」
そう簡潔に答えたのは、長門だった。
よくわかった。
茶菓子をボリボリと食いながら、答える。
「しかし、IBN5100を手に入れるのには、少々ネックがありまして……」
と言葉を濁したのは、他ならぬ古泉だった。
いや、お前の機関が手に入れられないと、八方塞がりなんだが。
困ったように古泉は笑う。
「まず、一つ目の問題は、IBN5100を探すことから始めなくてはならないのですが、なかなかこれが難題でして」
どこがどう難しいんだ?
「日本国内にIBN5100を持っている人物は、機関の調べた限り存在しません。海外で入手するしか無いでしょう」
…………。そんなにレアなのか?
「はい。幻のPCとか、レトロPCのツチノコと呼ばれているようです」
ツチノコって……。
「それと、二つ目の問題。こっちのほうが非常に大きな問題でして……」
古泉が言いよどむ。
なんだ? はっきりと言え。男なら。
「10年前にオークションに出品されたIBN5100の落札価格は150万$です。日本円にして1億2000万円ほどでしょうか? 流石に我々としても、そう簡単に入手出来ない金額でして。今ではプレミアが付いて、更に金額が跳ね上がっているようです」
一億二千万円。クラリときたね。
さすがに高すぎだろ?
うちの父親の給料の何年分だろうか?
「まあ、僕個人が、どうこうできる金額を超えているということです」
それはまあそうだろう。
申し訳ないですが、と古泉。
「そもそも、それだけの金額を私達“機関”が、なぜ負担しなくてはならないのか、と上司が大変にご立腹でして。僕も非常に弱い立場なんです」
そりゃそうだな。金は大事だ。この世界には先立つ物がなければ暮らしにくい。
「阿万音鈴羽さん。貴方にそれだけの金額を払うことが出来ますか?」
「うん、無理」
ああ、なるほど。確かにバイトしようかなー、などと悩んでいる未来人が1億2000万もの大金を融通するのは不可能だろう。もしもそんな奴がいたらぜひ俺に教えてほしい。友達になるから。
「それで、阿万音さん。上司の言うところによると、貴方の探しているIBN5100を機関が入手してなんの得があるのか聞いてこい、ということなんです。もっと率直に言うのならば、“機関”はIBN5100を入手することに見合った見返りを求めています。貴方にそれが払えますか?」
阿万音鈴羽氏は、二、三考えるような仕草をした後、
「出世払いじゃダメ?」
などと言い出した。
「出世される見込みがありますか?」
わかっていることがある。定職にもつかず、バイト雑誌をごろごろしながら読みふけっている女は出世しない。
「戦士として雇う気はない?」
「いりません」
即答だった。
「じゃあ、食べられる虫と、食べられない虫の見分け方とか……」
「何に使うんですか?」
にべもない。心なしか、古泉の口調が冷たくなっていっているような。
「じゃ、じゃあ、まさか……あたしの体が目当て!?」
「帰っていいですか?」
……古泉。怒っていいぞ。
どうしようもない冗談を飛ばす、阿万音女史を、何やら冷たい目で睨むのは、男二人である。
「はは……怒んないでくれるとうれしいかな……だって、ねえ」
まあ、気持ちはわからないでもない。
一億二千万円ぶん働けるか? と言われて働ける人間はまずいない。
せいぜいSOS団では、長門ぐらいだろう。
って、長門。
金塊とか出せないか? 一億二千万円分。
「無理」
あっさり言われた。
そこをなんとかお願いできないか?
「原子創造や原子変換は禁則」
であるらしい。まさに八方ふさがりだ。
重苦しい空気が部屋中にのしかかる。
未来人、宇宙人、超能力者が金に困って右往左往している図というのは、中々痛々しい。夢も希望もあったもんじゃねえ。
「そこで、お願いがあるのですがよろしいですか?」
と、提案しだしたのは、古泉だった。
なにか解決策があるのならば最初から言え。
「少々虫の良いお願いで恐縮なのですが、“機関”に、未来ガジェット研究所のDメールという過去へ遡るメールを使わせていただくことは可能でしょうか? いえ。SERNのデータベースに残っている情報を消す前に、ほんの僅かだけ使わせていただきたいのです」
なんだと?
何やら話がおかしな方向へと進んでいる。
「それが“機関”がIBN5100を入手するのの最低条件です。いかがですか?」
阿万音鈴羽は、しばし考え込んだ後、
「いったい、Dメールをなんに使うの?」
警戒した面持ちで答えた。
「いえ。大したことではないのですが、SERNや三百人委員会に利するような使いみちではありません」
「…………」
沈黙する阿万音鈴羽。
「もしも、不安でしたら、送信するDメールの内容を確認していただいても結構です。おそらくは、こんなくだらないことに使ったのか? と呆れられることでしょう。それに、もしも仮に危険な内容であったとしてもIBN5100を入手できるのならば、そちら側にとっては目を瞑るに十分なメリットではないですか?」
背に腹は代えられないということか。
何やら悪役の笑いを口元に浮かべる古泉。
なんというか、アレだ。
イヴをそそのかした蛇もきっとこんな顔をしていたのだろう。
「……おくるメールはあたしが確認させてもらうよ?」
「ええ」
「もしも暗号か何かだと判断したら、その場で破棄する。それでもいい?」
「構いません」
数瞬の沈黙の後、
「……わかった」
阿万音鈴羽は同意した。
第一回未来人と超能力者の会合、立会人は宇宙人と一般人、が終わると、もうすでに夜の闇も深い時間になっていた。
結局、「IBN5100を入手する代わりに、過去を遡るメールを使わせろ」ということで、事態は一応の解決をみたのだが、釈然としない。
8月の初旬までには必ず用意致します、と言い残すと、古泉は何やら機関の調整があるとかで、足早に長門宅を退出していった。
まあ、一億二千万の買い物である。色々と準備が必要なのだろう。
しかし、どうにも釈然としない。
過去を変えるためにIBN5100を用意して、それを使用するのならば、過去を変えるためのメールも上書きされてしまうのではないか?
よくわからないと悶々とする俺に、長門は、
「修正される未来と、修正した因果は別」
などと、更に訳の分からないことを言って、更に混乱させてくれた。
「仮に、未来が修正されたとしても、全てが上書きされるわけではない。ある特定の事象だけを消さないように修正することは可能。また、修正された箇所は修正された箇所として、観測が可能。そこを特異点と呼ぶ」
なるほど。判らん。
「不安に思う必要はない。いずれ解る。それが……」
長門が珍しく言いよどむ。長門が言いにくそうにするというのはめずらしい。
はっきり言ってくれて構わないぞ。俺があと何日後に死ぬとかそんな話出ない限りは。
長門は、黒曜石のような目をこちらに向けて、
「それが、あなたの未来」
そう口にした。
まずは、
この動画を見ていただきたい。
ご覧いただけただろうか。
動画をご視聴された方には土下座して謝らねばなるまい。
大変申し訳ない。
このとおりである。
これは気色悪い。吐き気をもよおすほど大変に気色悪い。『こんな醜悪なものを見せ付けるとは、テメーなにを考えてやがる? ぶっ殺すぞ?』 と感じた貴方は正常。
そのとおりだ。僕もそう感じた。
このカウントダウンには一切の美しさが存在しない。そればかりか、
正義に酔っ払った人間の醜悪な面を凝縮して煮詰めたような動画である。
久しぶりにクラリと来た。
蛙の交尾の記録動画であったとしても、そこには生命に対する畏敬の念や崇高さが感じ取れるものだし、芸術性を見出すものも居るだろう。
が、僕はこのカウントダウン動画には、一切の美しさを見いだせないのである。ただひたすら醜悪である。
反原発とか、原発推進とか、論を戦わせる以前の問題だ。 ギャーギャーと品性の欠片もないシュプレヒコールも極めて気色悪い。そして、
途中から歌われるハゲの歌詞は、芸術に対する冒涜であるという程に吐き気を催す。
ハゲの歌を一部を抜粋する。
甘い言葉に踊らされ 大事なふるさとさようなら
いくらないてもいくらないても 後の祭り
札束の山に目が眩み 札束の山に目が眩み
豊かな暮らしと勘違い
差し出しちゃった 差し出しちゃった
子供の笑顔 はらはら
それそれ ドカンと爆発ドカンとね
(中略)
騙された奴が悪いのか 騙した奴が馬鹿なのか
子どもにしてみりゃ同じこと
こんな大人に こんな大人に
なるんじゃないよ はらはら
それそれ ドカンと爆発ドカンとね
この歌詞で揶揄されているのは間違いなく、原発を押し付けられた被害者である。 おいおい、地方に原発を押し付けたのは都会のエゴだったんじゃねーのか?
差別製造機だからやめろって言ってたんじゃねーのか?
何よりうんざりするのは、
被害者を“札束の山に目が眩み”と揶揄する馬鹿な歌が歌われているのに、『誰一人ブーイングをしていない』という驚くべき事実である。 一体何のための反原発デモなのかこれでは一切わかったものではない。
誰か一人ぐらい『ふざけんな馬鹿』って言える奴はいなかったのか? いなかったんだろうねえ。
言える空気でもなかったんだろうねえ。
しかし、これを真摯で真面目なデモという人間も居るんだから世の中は広い。
目眩がする。
似たようなキモさを感じる動画を昔見たなあと思ったら、
これだったので、合わせて載せておこう。
【追記】
twitterのほうで、在特会といっしょにするなという話を持ちかけられたので、このカウントダウンと在特会でものなにが同じか、記しておく。
不幸に見舞われた中学生を吊るしあげて正義に酔っ払ってるのと、被害者を金に目が眩んだ馬鹿と揶揄するのと全く同じレベルである。
翌日の放課後、俺は9組の前で古泉が出てくるのを待っていた。
中途半端な超能力者は俺の顔を見ると、いつのもにこやかな人畜無害スマイルを送ってよこす。
文芸部室で話をしようとも考えたが、陰謀渦巻く舞台裏を妄想で世界を作り替えるハルヒに聴かせるわけにもいかず、校舎裏の樹の下に呼び出すことにした。別に告白などするわけではない。ここならば人通りも少ない。厨二病全開の、SERNが世界征服を〜とかいう意味不明な設定をペラペラしゃべりたおしても、誰にも聞かれることはないだろう。
「古泉。お前に頼みがある。他の誰でもない、古泉一樹、おまえにだ」
IBN5100とかいうレトロPCを朝比奈さん(小)のために入手せねばならなないが、当の朝比奈さんは頼りにならないし、長門からはやんわりと断られた。
長門のヒントによれば、“身近な知り合い”が鍵であるらしい。ハルヒがまさか、レトロPCなんぞを収集する奇癖を持ち合わせているわけはない。
ここはひとつ古泉の所属する機関とやらに、入手してもらうのが常法というものだろう。
いつもは「世界のために〜」とか題目を唱えて、ハルヒのワガママに俺を付きあわせている、たまには俺の頼みも聞くべきだ。怪しいアルバイトに他人を勧誘するぐらいだ。金は使い途に困るほど有り余っていることだろう。
「SOS団以外での頼みですか? あなたの頼みならば大抵のことは聞いて差し上げたいとは思っていますが?」
にこやかに笑う古泉。しかし、コイツは本当にそう思ってるのか、いつも笑っているせいで判らんのだ。
「古泉。まじめに聞いてくれ。お前にしか言えないことがあるんだ。俺にとっては、お前が残された唯一最後の切り札なんだ」
これぐらいに言えば、古泉も人畜無害のポーカーフェイスを捨てて、ちっとは本気で俺の話に耳を傾けるかも知れない。
「な、なんですか? 僕に出来ることならば良いのですが……」
「ハルヒでも、長門でも、朝比奈さんでもダメなんだ! 俺にはお前しかいないんだ!」
その時の古泉の顔を多分、俺は一生忘れないだろう。
苦虫をダース単位で噛み潰し、なおかつ、必死に笑おうとしていた。
しかし、無言だった。
「……………………」
「俺は本気だ。お前が必要なんだ」
IBN5100とかいうレトロPCを手に入れるためには、どうしても古泉の協力が必要だ。
「……………………」
「もう、俺にはお前しかいないんだ」
ここで断れると、IBN5100を手に入れる手段がなくなる。
「……………………」
古泉の顔から笑顔が消えた。かといって、時折見せるルサンチマンに満ちた悪役の表情でも、妙なことを提案する陰謀屋の顔でもない。あえて言語化するならば「やべえ。マジでやべえ。逃げ出したい」とでも言い出しそうなそんな表情だ。
コイツはそんなに俺から頼みごとをされるのが嫌なのだろうか? いつもはハルヒのために〜とか他人に厄介ごと押し付けるくせに。
古泉は冷や汗を頬に浮かべつつ、
「……す、少しだけ、考える時間を……いただけますか」
なんとか声を絞り出した。
「なにを考える必要があるんだ?」
まだ、こっちはお願いさえしていないというのに一体なにを迷う必要がある?
「こ、心の準備というか、上司の意向というか、そういったものが……」
「話だけでも聞いてくれ。聞いた所でへるもんじゃないだろ?」
「……よ、よく誤解されるんですが……僕はその、そういった趣味は……」
コイツの趣味ってなんだ? 下手くそなボードゲームが大好きだとか、マイナーなミステリーにハマってるとかそんなことは、この際どうでもいい。
「お前の趣味なんか関係ない。まずは話を聞いてくれ。いつもはハルヒ絡みの無理難題を押し付けられてるんだ。ちょっとぐらい俺のお願いを聞いたってバチはあたらないだろう?」
後ずさりをする古泉。
なぜ逃げるんだ?
古泉は今にも泣き出しそうな面をして、
「と、友達のままでいましょう。お願いします」
そんな意味不明なことを言い出した。
「あなたが、その……ソッチ系の告白をしてきたのかと思って取り乱してしまいました」
古泉は朝比奈さんの淹れた茶をすすり、なんとか平静を取り戻した。
背筋が凍るとはまさにこのことである。
もしもかりに、古泉が誤解したままOKサインを出してきたらと思うとゾッとする。
古泉が、ヘテロタイプのノーマルであって助かった。
なんとか誤解をとき、ハルヒの来ていない部室に古泉を連れ込むまでには、いろいろ苦労したが、それはまた別の話だ。
何やらメールが届いてハルヒはSOS団を休むつもりらしい。
「それで、貴方の“頼み”とは一体なんですか?」
「いや、取り立てて大したことではないんだが、レトロPCを一台用意して欲しい。IBN5100とかいうやつなんだが」
古泉の前髪がぴくんと跳ねた……気がした。
なにか妙な要求をしただろうか?
「いえ、貴方の口から、そんなレアなPCの名前が出てくるとは思わなかったものですから。なぜ、そんなモノを貴方が欲しがるのかお聞かせ願えますか?」
そうして朝比奈茶をすする古泉。
どうでもいいが、古泉はアレか? 敬語を使わないと死ぬ病気でも罹患しているのだろうか? ハルヒの好みに合わせて敬語を使っているそうだが、案外タメ口のきき方を忘れてしまっているんじゃなかろうか?
「ああ、そこから話さないとダメか。ところで、古泉。三百人委員会って知ってるか?」
ブハアッ!!
と顔面に、薄緑色の液体が引っ掛る。
……汚い。ついでにもったいない。朝比奈茶を吐き出すとは何たる罰当たりな。
「わ……」っと小声を上げたのは朝比奈さん。
長門は相変わらずの無口、無表情、無感情を貫いている。
ティッシュを取り出して顔を拭く俺に、
「いいですか? この部室以外で、そういった単語を絶対に出さないでください」
古泉はいつに無く真剣な表情で詰め寄ってきた。
「この学校にも、三百人委員会のエージェントが潜り込んでいますし、あなたに接触しようとする勢力は三百人委員会以外にもいます。しかし、僕らのような裏の勢力にとって、三百人委員会は無視することができないほど大きな勢力なんです」
そんなに凄いのか? 三百人委員会って?
「本当の話をおきかせします。涼宮さんを狙っているのは、朝比奈さんの未来人グループ、長門さんの情報統合思念体、そして我々の機関、だけではありません。数えるのも馬鹿らしい程にたくさんあるんです。その水面下での殲滅戦は、うんざりするほどに混沌としていて、正直あなたに教えるのもはばかられる程に穢れに満ちたものなんです」
それはまるで、大人が危険なことをした子供に言い含めるような口調だった。
「あなたには、想像もつかない世界でしょう。そのほうがいい。永遠にこっち側の世界は知らないほうがいい。しかし、あなたがこちら側に首を突っ込もうとしたのならば話は別です。あなたは一般人ですが、知っているということを匂わせただけで、危険が一つ増えるということを覚えておいてください。つまらない話で恐縮ですが」
つまらなくはない。しかし、実感がわかないな。
「そのほうがいいでしょう。三百人委員会というのは、それ程に実態がつかめず、どこにでもいるしどこにもいない組織なのです。見えないゆえに危険な、それでいて強大な力を持っています。三百人委員会のエージェントとは、我々の抗争の裏の、更に裏を牛耳ろうとするときに必ず出てくる、それでいて姿の見えない連中なんです」
俺は沈黙した。あの阿万音鈴羽とかいう少女が戦っている組織の大きさに愕然としたからだ。
自分とは大差ない年齢で、そんな組織と戦っているとはまるで思えない。いや、殺されかかった身ではあるのだから、擁護したり弁護したりする気は一切ないのだが。
「わかった、この部室以外ではその単語は使わない」
「ええ、お互いのために。それでなぜそのIBN5100と三百人委員会が関係するのか、聞かせていただいてもかまいませんか?」
俺は朝比奈さん(大)と、阿万音鈴羽とかいう少女、そして長門から聞いたことをかいつまんで説明した。
かなり冗長な説明になったが、古泉は、
「わかりました。上司に掛けあってみます」
と、こちらの意図を汲み取ってくれたようだ。
「少々時間がかかるかもしれませんが、それについてはご容赦ください。あと、その阿万音鈴羽という未来人ともお会いしたいので、会合をセッティングしていただいてもかまいませんか?」
ああ今は、長門の部屋にいるから長門がOKを出せばいつでも逢えるぞ。
「長門、かまわないか?」
「かまわない」
こちらを無表情の視線を寄越し、小さくうなずく。
「そういえば、あの阿万音鈴羽はどうだった?」
「べつにどうも。……ただ」
ただなんだ?
「私といると落ち着かないらしい」
そう無感動に言った。
どうやら狙いは的中したようだ。
当分気まずい気分を味わってもらおう。